昭和56年9月1日 月次祭 ●①、②、④ 【入力者:梶原佳行】



 今朝、ご祈念、御理解の後に、久留米の石田先生がこういう句が出来ましたからこうやってお供えしていかれました。皆さんに披露いたします。『虹の輪の十全なるを節拝む』虹の輪の十全なるを節拝む。大変こう意味が深いので、私共では分かりませんけれども、何回も繰り返し読ませて頂いておりますと、最近の石田先生の信心の、まぁ心境であろうと思うのです。
 お医者さんですから、もう例えばもう、只今、まぁ六十歳とされて六十年間ね、まぁいうなら高度の学問も身につけられてきたけれども、信心のお話しとか、また信心がこんなようなものだというようなことは、まぁ初めて聞かれたり、また体験されたりしておるのではなかろうかと。しかもどこまでも、いうならば天地の理にあっておる。かなっておる。
 合楽での、特に合楽理念。例えば毎朝夫婦でお参りになりますが、本当にこう日々目が覚めたような思いでございますという意味のお届けをなさいます。「今天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」と。ね、もう毎日毎日が、天地の開ける音である。もう本当に、初めて聞くお話である。
 しかもお話を頂けば頂くほど、合楽理念が十全なるものであるということ。ね、例えて、まぁ申しますとね、んー、迷信的なものがない。聞けば聞くほどなるほどと合点の行くことばっかり。しかもそれには、人間の願って止まない、いうならばおかげがとものうておる。とものうてくるのである。
 これも2、3日前にお届けをなさっておられましたが、先生私は10年来、皮膚病で悩みました。もうお医者さんのことですから、ずいぶん手立て、手当てもなさったに違いないのだけれども、どうにもしようがない。それこそ願ったわけでも、御取次頂いたわけでもないのだけれども、それこそ日々が、目が覚めたような、天地の開ける音を聞いて、日々目を覚まさせて頂かれる、過去数10年の人生というものに、一つの終止符を打って、新たな信心生活がしかも夫婦で始められていっておる。
 もう朝から晩までが有り難い勿体。まぁいうなら合楽にご縁を頂いたということにもう、これをない喜びを日々感じながら、もう朝の3時になった、もう4時の朝、早うせん、ぐずぐずしておっと、親先生の朝、4時のご祈念に間に合わんぞといったような勢い、勢いというか、生き生きとした、まぁご信心が出来ておられます。
 ね、「虹の輪の十全なるを節拝む」。まぁようもこういう有り難い神様にご縁を頂いたものだということでございましょう。ね、私はこの虹の輪のというところに、合楽でいわれる、人間が人間らしゅう生きながらといわれます。ね、ここにも十全でなからなければ言えないことです。ね、例えばお酒の好きな人が、お酒が飲めない宗教があります。お肉を食べたくても、食べられないという宗教があります。ね、では十全ではない。ね、いうならば好きな物を頂いたり、飲んだり、味わいながらというのですね。
 私はこのことについて2、3日前、頂いた朝の御理解でしたけれども、合楽では、人間が人間らしゅう生きながらと。ということを、まぁ全てのことに御の字をつけてということになってくると、ね、その事柄が今まではお粗末だ、御無礼だ、こういうことはしておってはと思いよったことの中にも御の字を付けて頂くことによって、その事柄が、いわば生きてくる。
 それが有り難い対象として頂けれる。え、例えてなら申しますなら、酒は飲んではならんと言われておるのに、飲んだというては、自分の心の呵責とど、でも申しましょうかね、良心の呵責に苦しむ。そして、自分のような者ではおかげ頂ききるまいと、もうおかげの頂けない世界に落ち込んでしまう。
 ところが合楽では、ね、勿論飲みすぎてはいけないけれども、適量に頂けば有り難く神様頂きますという心あらば、当たる事ないという道を教えて頂いた。今まで心に引っ掛かりながら飲んでおったものを、心に引っ掛かりながらしておったというても良いです。ね、それが、ならすること、なすこと一切の中に御の字をつけて頂くという事になりましたら、非常にこう、確かに人間らしゅう生き方が出来るようになってくる。
 ところが最近私は、人間らしゅう、人間らしゅうばっかりいよったら、もう何でん御の字をつけさいすりゃよかといったような傾向があるのに、まぁこりゃちょっと可笑しいことになってきたぞと思うような時が時々ございました。けども2、3日前の御理解を頂いて、まぁ釈然としたのでございますけれども、ね、私共が、いうならばなるほど全てのことに、物にも御の字をつけて御物として、頂かなければならないように、事柄の中にも御事柄として頂くという、その御の字の内容である。
 御の字をつけさえすれば良いと言うのではない。その御の字の内容がどのようなことになっておるのか。ね、私共が飲みたいから飲む。食べたいから食べると、まぁいうことはです、まぁそれはいうならば私自身に就実であるという証拠です。ですからこれは天地の心にかなう、かなうとるんです。それをいけないということじゃないのです。ね、ところがね、私共やはり人間ですから、人間の道にもすぐわなければならない。
 この辺のところが難しいですね。一切が神様の御物だからというて、デパートの商品ばゴロゴロ、神様の御物だから私は持って帰ってきよったら、やっぱ泥棒になります。神様の目からご覧になると、本当に神様の御物ですから、大したことじゃなかろうかも分かりません。けれども、人間の世界では許されません。
 だから、御の字さえつければ、神様の御物だからというて、御の字ばかりでいくということの中に問題があるのです。ね、私共がね、いうならば人間が人間らしゅう、全てのことに御の字をつけて頂くという、その生き方というか、御の字の内容というのは、神様のみ教えにまた忠実でなからなければならないということなんです。
 ね、私共が、いうならばまぁわがまま勝ってと、いうちゃならんけれども、心に欲するままのことをするといたしましょうか。ね、それは神様の心に対して、機感にかなわんということじゃないけれども、人間のいうなら、見方からすると、まぁロクソウな人ではあるとか、まぁ非常識な人だということになりますけれども、神様の目からご覧になりゃ、なれば大したお粗末でも御無礼でもない事を、なのです。
 ですから私共がそういう人間が人間らしい生き方をすることの為にはです、ね、いうなら教えにも又忠実でなからなければ、そこのところにですね、いわゆるバランスがとれてくる。ところがお互いの、いうならば信心はしておるけれども、思うようにならん、いのままにならないおかげが受けられない、苦しいことが続いておると、いわゆるアンバランスなんです。
 ね、教えを頂いて、はー、人間が人間らしゅう生きる生き方を合楽では教えてもらうというて、そこのところだけに忠実であるけれども、教えをいうならば頂くと言うこと、又守らせてもらうということでは忠実ではない。ね、教えを守るというところに、私は信心の修行があると思うんです。修行をせずしておいて、そして、まぁ自分の、好き放題のことをするというのでは行けません。
 ね、いわゆる真っ暗に、人間が人間らしゅう生きるという生き方のな中にです、ね、いわゆるそれは、私共が、自分自身に忠実なんだ。ね、と同時に、なら神様のみ教えにも又忠実でなからなければならない。そこにバランスがとれてくるところにです、いうならば有り難い生き方が生まれてくる。いうならば、虹の輪の十全なるを体験することでしょう。実感することでしょう。いうならば節を拝まずにはおれないことになるでしょう。
 私は裏に、こんな、まぁちょっと先生のこの句をもじったんですけれども、●①「虹の輪の十全にして妙賀」かなという。もうね、例えば私は虹というのは、虹の七色、虹は七色とこういわれる。この七色があれば、あらゆる色を出す、出して行く事が出来る。十全である。七色があればあらゆる色が出して行くことが出来る。ね、この色だけはということがない。十全である。●
 そういう世界に住んでおるということにです、いわゆる喜びの妙を感ずるというのです。ね、それを又教えて頂いたということに、感謝するのです。今までは知らなかった。これが罪になったり、ご無礼になったりするような、それでもやはりそれをおかしてきた。それで、まぁ注意深い私という事にもなってきた。
 昨日、南米から若先生宛に、末永先生が長々と手紙をよこしております。その中に、新聞の切り抜きが入れてあった。そして、ブラジルというところはカトリックが国教になっておる。他の宗教は入れないというお国柄なんです。
 だから末永先生が宗教人として入国が出来たというような事はもうそりゃもう大変ないうならば、まぁは天候のおかげだったんです。ね、とにかく合楽の御比礼によくして始めて出きることだということなんですけれども、そういう難しい、きびしい、国の情勢が段々変わってきて、最近はこの特に宗教人にきびしかったのが、特に宗教人にそのまぁ、穏やかになってきて、この分だと、いわばまた次々と宗教者が入国が出来るような働きにすら段々なって着ておることを、もう本当に凄まじいまでの合楽の御比礼といわずにはおれませんといったようなことが書いてございました。
 ちょうど4時のご祈念の研修の時でしたから、それを頂き終わって、読んでもろうて、聞かせてもろうた。●②そのことをお礼を申させて頂いておりましたら、大きな十字架。その十字架が、こんな斜めになって、ここへ人がぶら下がっておるところを頂いた。
 2、3日前私はテレビを見せて頂いておりましたら、キリスト教の神様はね、もう普通では神様には接近出来ない。茨の道を通らなければ神様に接近する、近づくことは出来ないと説いてあるんですね。その辺のところが私のところともう全然違います。合楽の場合はそうではない。ね、それこそ日々が有りがたい勿体ないで神様に近づけて行けれる。又、神様を見ることが出来る、又は聞くことが出きる。
 というのが、まぁ合楽の生き方ですけれども、とにかくその、いばらの道というか、そういう、まぁ、難儀なことを、十字架を背負うというが、そのいわばそんカトリック教の、いわゆる国教ですけれども、その、その茨の道を歩いてまで神様に接近しようという人達が段々なくなってきたんでしょう。そしてその教えに、背負うのではなく、頂くのではなくて、これにぶら下がっておるというだけのこと。だからこれが段々倒れかかってきたと。そこにいうならばカトリック教だけではいけないということにもなってきたのじゃないでしょうか。
 これは、まぁカトリックだけのことではない。金光教でもやっぱり同じことがいえる。教祖のみ教えというものをです、私共が頂くということ。いうならば教えに忠実であるということ。熱心に信心しております、おかげ頂いておりますけれども、又おかげは受けられんというから、なら教祖のみ教えのどこをどう行じておるかというと、知ってはおるけれども、行じていないというなどはこれは私は、教えにぶら下がってるんだと思う。ね、そこを合楽では、ね、誰でもその気になれば楽しゅう、有り難く、ね、行じて行けれると言う手立て。●
 ね、皆さんが申しております成り行きをいよいよ尊ばせてもらうという、この修行なんか素晴らしい。土の心で、いわゆる天地日月の心といったような心を分かりやすく説かれておるから、ここは天の心で、ここは地の心でと、それを頂いていくという修行、それを合楽では、心行信行とこう言っております。
 ね、勿論、修行のとものわない宗教は、こりゃ何にしたってそうでしょうけれども、ね、合楽の場合は、もう表行全廃、そしていわゆる心行、心の行である。又、信行で、信心の行である。 心行、信行、そして、家業そのものを行と。ですからね、私が思うのに、この修行なのですから、苦しい、まぁ修行と思うておりますというのじゃなくてね、そりゃなるほど一日辛い苦しい修行させて頂いた。ご神前に出たら、もう今日も本当に結構な修行させて頂いて有り難かったというお礼になって始めて修行が生きてくるわけなんです。
 ね、ただ苦しいことが修行というだけじゃいかんのです。修行と思うとりますじゃいかん。ね、一日を締めくくった時に、お礼が言えれるような修行でなからなければ、それは血にも肉にもなっていっていないんです。ね、そこを通り越えておかげにはなっても、いうならば修行のたい、修行すればお徳が受けられ、力が受けられるという力にも徳にもなっていない。
 昨夜は御礼信話会で、皆さんの、色々、まぁ発表を聞かせて頂いた中に、野村さんという方が発表しておられました。この夏に入りましてから私は、どういう暑いことがあっても、もう暑いということを言わんと心に決めましたと。おかげで今日まで、もうそれこそ汗ぶるぶるの毎日ではございますけれども、しるしいともくるしいとも一つも思いませんでした。むしろそのことが有難い、とお礼が申上げられるような心が開けてきて、思うたことですけれども、これから先、この生き方でいけばどのようなことがあっても、起こってきても、驚くことはいらんぞ、恐がることはいらんぞと分かりましたというて、分かったじゃない、こりゃもう悟ったんです。
 ●④ね、どういう暑い時でも、こりゃ私の、まぁ体験ですけれども、椛目時代の夏というのは、もうそりゃ大変の暑さでしたし、又もうこういう冷房もないし、扇風機一つ使うわけじゃないですから、もう本当に、もう(せなつたを、汗の、あつさ、せの、あ、?)汗の暑さよだるまひょう、かなんかっていうような、ね。もうそれこそ背中はもうあー、降りる時にはもうびっしょりになって、汗、背中にダラダラ流れよるとが感じられるけれども、前からはありがた涙がこぼれよったです。
 結構な修行させて頂いて有り難いということだったんじゃないでしょうか。修行というものはね、そのお礼がいえれるというところに、修行の値打ちがあるんです。それであって、初めて力にもなりゃ、徳にもなるです。苦しい、修行と思うとります。ね、野村さんじゃないですけれども、もうはまった。この夏はもう暑いということは決して言わんぞという修行に取り組んだら、その、暑いと不平不足をいわんですむようにおかげを頂いておるとこういうのである。●
 だから全てのことがこの調子でいくならば、どういう苦しい事にぶつかっても、苦しい事でしょうけれども、それが有り難いという事になるです。という、まぁ一つの悟りの境地でしょう。最後に私の方の光昭が発表しておりましたが、先だって山口の共励会にいった時に、ご神前に大きなスイカのお供えがしてあった。
 そのスイカのお供えの中からご理解を頂いた。合楽ではスイカといえば最高の修行だと。水火と、火や水の行にも匹敵するような行なんです。ね、けれどもその行ということがね、ただ苦しい苦しいではなくてです、ね、おかげを頂くために修行するのじゃない。ね、丸うなることのために修行するんだというのです。
 あっ、なるほどそれを聞きながら感心した。大抵の者はおかげば頂かんならんけん、一生懸命火の行、水の行しよる。というのじゃなくて、ね、スイカのように丸うなることのために修行してるんだと。割って見て食べてみたらこんなにも美味しいものだ、と最後に言ってました。修行というものはこんなにも有り難いものだ、美味しいものだ。そして昨日の朝のご理解を引用しながら、ね、今朝のご理解の中に、この方の道は喜びに喜んで開けた道だからということを、ね、喜びに喜んで、喜びにいさみをそえてということであった。
 ね、心中がえさんでくる。ただ喜ぶだけじゃなくて、喜びに喜んでの、いうならば信心修行でなからなければならない。ね、そこにはいうならば修行の味わいというものが段々分かってこなければならん。それにはまずは、なら本気で野村さんじゃないけれども、はまらなきゃいけん。ね、今度どんなことがあっても、もう暑いとはいわんぞと。はまった。ところが、なるほど言わんですむように。ね、背中を流れる汗はもうそれこそ暑いように感ずるだけれども、そのことが有り難いとありがた涙がこぼれてくる。初めてそれが、修行として受けてくださるのはそういうことじゃないですか。
 はー、きつか、きつか、苦しい苦しい。はー、こげな暑かつん、どうしてここに座っとらんなんだろうかといったような修行では、私は、それはもう修行じゃなくて、苦労だと。ね、お互いが日々の会話の中に、ね、様々な、やはり修行がございます。その修行をね、やはり、苦しいことは苦しいけれども、一日を締めくくった時にです、本当に結構な修行させて頂いてありがしと言う心がいただけるかどうかと。
 それには今日も又、一日本気で修行させていただこうという構えがなからなければ、又この修行せんならんということからは、有り難いという答えになってこない。今日もどんなにあつかっても暑いと言わん修行させてもらいますという構えが、もう朝に出来ておりますから、一日どんなにあつかっても、締めくくった時には、結構な修行させて有り難いということになってきた。
 そのいうならば修行の内容がです、教祖様のいうならみ教え、合楽理念なら合楽理念に、どのくらい日々忠実であるかということであります。修行の中に、はー、ここは黙って治めるんだ。ここは成り行きをいよいよ尊ばせていただくんだ。ここは一つ本気で限りなく美しゅう、無条件で与えて止まない美しい心にならせて頂こうというように、合楽理念に基づいて日々が支えられる、どういう苦しいことがあっても、ね、今日も結構な修行として、お礼が言えるのじゃないか。み教えに忠実でなからなければならない。そのみ教えに忠実であって、初めて私共がです、あれはいけん、これはいけんということじゃない。人間が人間らしゅう、いうなら私自身にも忠実に生きて行くことが出来るのだ。
 束縛がない。ね、それにみ教えにも忠実である、そこにバランスのとれた心の状態に、又バランスのとれたおかげの世界ということにもなるのでしょう。ね、いわゆるおかげがアンバランスになっておる場合はです、私共はこれほど熱心にお参りもしよる、お話も頂きよるけれども、果たしてどれだけみ教えに忠実であるかということをね、思うてみなければいけません。忠実ではあっても、いうならばね、私に、自分自身に忠実であるということの方が勝っておる場合は、くっとバランスが崩れる。これを保たれていかなければならない。
 自分自身にも忠実であると同時に、教えに取り組むということも行ずるということにも、忠実でなからなければならない。そういう日常生活の中から生まれてくるのが、なるほど合楽理念は十全の教えだなということが分かってくるんです。
 はー、こんな冷たい物を飲んじゃいけない。こんな暖かい物を食べてはいけない。というようなものではなくて、それをそれこそ、御の字をつけて有り難いとして頂かせてもらう。その御の字の内容が教祖様のみ教え、いうなら合楽理念にどれだけ忠実であって、その御の字になっておるかということを思うてみなければならん。
 初めてね、私は先生のご心境は分かりませんけれども、なら非常に難しいことですから分からんけれども、「虹の輪の十全なるを節拝む」という心は、本当に金光教の信心ぐらい素晴らしい、いうならば、まぁなんというか、人間に寛大なというか、ね、そのまぁ教えであろうと。それでいて、おかげが頂かれる。これも3、4日前でしたけれども、ね、ご夫婦でお参りになってここでお届けされますです。先生もう本当にこのことは神様にお願いしたこともなかったのに、10年来の皮膚病に悩んでおった。お医者さんのことですから勿論何か手立てをなさったに違いはないけれども、難儀しておられたのが、それこそ願いもせんのにおかげを頂いておるのに、もう改めてビックリしておられます。
 いうなら、いうならバランスのとれた信心生活が出来ておられる。それこそ日々が目が覚めたような心の状態で、いうならば、もうそれこそ3時になったな、もう目が覚める。さぁもう4時、4時のご祈念に間に合わんぞといったような、勇みに勇んだ心。それに今日はどげな御理解頂くだろうかという、胸がワクワクする思いで御理解を頂く。ね、頂くたんべんに、新たな世界に入っていかれる。
 いわゆる虹の輪の十全である、その人間のその生き様の中にです、こういう生き方が出来る教えがあったのかと。いうならビックリしての日々の信心生活ではなかろうか。そういう私は、信心を頂きたいと思うんです。喜んでおりますじゃなくて、それにもう一つ喜びに喜んで開けた道じゃらからと仰せられるのを、私は喜びに勇みを沿えてとこうもうしております。その勇みがないとです、いうなら昨日の野村さんのお話しじゃないけれどもです、ね、その構えがない、勇ましさがなか、勇みさがないとです、ね、やっぱりもう暑か暑かちいうとらんならん。暑いことに間違いないもん。けれどもこちらが構えてはまっとりゃ暑いことがさほどに苦しいことではないということが分かった。
 これは暑いだけのことじゃない、全ての事柄の中に、もうこちらが構えを持って、それに取り組んだら、ね、難しいことはない。一事が万事にこの生き方を身に付けていくなれば、行く手に恐いものはないと野村さんは昨夜、そういっておられます。ね、そういう生き方をいよいよ身に付けて行きたいとおもいます。どうぞ。
 もう一遍皆さん、「虹の輪の十全なるを節拝む」。合楽にご縁を頂いて十全の教えの中にあるということを、本当に心から、節を拝んで行けれる生き方を身に付けなければ合楽通いの値打ちがない。どうぞ。